子供の出来不出来について親の貢献を外から判断することは不可能だと思う件

先日「中学受験生の親は子供をポケモンと勘違いした親の集まり」という記事を読みました。確かにネットを見ていると、そのように見受けられる親は存在すると思います。ただ、このようは親は別に中学受験界隈だけに存在しているわけではなく、スポーツ教育界隈にもたくさんいるのではないかと思います。それについての私個人の意見としては、「子供の出来・不出来を見て、それが親の貢献によるものなのかどうを外から判断することができないので、子供の出来を他人に対して自慢してもあまり意味がない。」です。

本来子供が持ちあわせている能力には限界というものが存在します。しかもその能力にも「散らばり」が存在します。非常に当たり前の話です。何の例えでも良いのですが、例えば私の娘が非常に背が大きかったとします。それを他の人に自慢しても、「ま、遺伝的要素もあるし、そういう子供もいるよね」くらいに思われるだけでしょう。「わぁ~、お父様の努力のたまものですね!」なんて話に絶対にならないはずです。学力でも運動能力でもほとんど同じ議論だと私は思っています。どちらもその人間固有の特性値でしかありません。ただし、学力や運動能力は身体的特徴よりも努力によって伸ばすことができると思っています。(それにも限界はあります。)その部分を伸ばすサポートをするのがまさに親の腕の見せ所なのです。

仮に、子供の学力や運動能力を限界まで引き上げることができたとして、その結果の能力が全体の平均値やそれに満たないケースもあり得ます。しかし、それは十分に親の貢献が功を奏している状態であると言えます。一方で、もともとの能力が高いにもかかわらずそれに甘んじてその子が持つ限界の能力にまで引き上げることができなかったとすると、見た目の能力は確かに平均値よりも大幅に高いかもしれないですが、親の貢献はほぼないと言えるでしょう。残念ながらその子が本来どの程度の能力を持っていて、親の貢献がどの程度あった結果としてどこまで能力が伸びたのかについて外から確認する方法がないと思います。そうなると、結局のところ先述したような「ま、遺伝的要素もあるし、そういう子供もいるよね」としか言えないことになるのです。自慢するという事は他人からの羨望のまなざしを期待していることが背景にあることになりますが、残念ながら羨望のまなざしをもらう事がどうしても難しいのです。

私自身は他の子供がめちゃくちゃ勉強できる・めちゃくちゃサッカーがうまいなどの投稿を見ても「ま、そういう子もいるよね」くらいにしか思えません。それは私にも言えることで私が娘のことについて自慢をすることは殆ど他人にとって意味をなさないのです。確かに、私自身能力が高い子供の親がどのような教育を施しているのか(身近なところでいえば、学力を高めるためにどのような参考書を使っているかなど)を参考にすることはあります。なぜならば、それがもしかしたら我が子にフィットすることで子供の能力を伸ばせるかもしれないからです。ただし、これまでのところフィットしないことの方が多かったです。それくらい教育というものは固有の制約条件が多く再現性のないものだと認識しています。私はたまに参考になった問題集やアプリ、勉強方法について書くことがあります。決してこの方法を他の人に押し付けたり絶対的に良いものであると主張したいわけではなく、単純に私の記録のためと私以外の他の誰かの参考になればいいなと願ってのことなのです。(何の参考にもならないかもしれません。)

本来であれば子どもの能力をうまく限界まで引き上げることができた親の貢献だけを抽出できれば、そこについて見習うべきことはたくさんあるのではないかと考えています。しかしながら、一般的には結果として出来の良い子供の親の発言力が強く、一方で出来が普通もしくはそこまでパッとしない子供の親の発言力はそこまで強くありません。(もしくはそもそも親が大したことないと勝手に考えてしまい、発言していない)したがって、その抽出は非常に困難であると言えるでしょう。結局のところ、我々親は子供の学力・運動能力については、「人は人、うちはうち」の精神で日々一生懸命試行錯誤していくしかないと考えています。

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