「親の無力さ」について学べた一年
2023年2月に中学受験の入り口に立ってから11か月ほど経過して、私自身学んだことがあります。それは中学受験において私たち親は「基本的に無力だ」という事です。
サピックスで新4年生の授業が始まったころは「娘の潜在能力がどうであれ、きちんとしたアプローチを踏めば大きく学力を伸ばすことができる」と思っていました。様々な方々の中学受験ブログやツイートを拝見しては、もっといいアプローチは無いだろうかと模索していました。しかし、子供の成績の良さを報告する情報はあれど、出来が悪い状態を大きく挽回出来たようなエピソードをほとんど目にすることはありませんでした。兄弟・姉妹でも結局のところ出来がいい子供はできるし、出来がイマイチな子供はイマイチで、出来がイマイチな子供を出来がいい子供に大きく変貌させることができた親を少なくとも私は見つけ出すことができませんでした。その事実に直面した時に、「結局のところ親が子供に対して基本的には無力な存在で、してやれることなんて第三者としてのアドバイスかその子に最適だと思われる環境を用意するところまでなんだ」という考えに至りました。「凄い腕を持ったパパ・ママ」なんていなかったのです。
我々親は子供が勉強に集中できなかったり・出来がよくなかったりするとなぜ怒ったりするのでしょうか?それは「もっと子供の成績をあげたい」と思うからだと思っています。しかし、そもそも親に子供の成績を上げる力なんてないとしたら?そう考えると、親子が衝突するのは親が子供との間合いを近くとりすぎな可能性が高いのではないかと思っています。私たち親が自分の無力さを認識し、適度な間合いを保ちながら自分の役割を全うするとそのような衝突は減るのではないかと思っています。
中学受験というストーリーの中において、私はある意味「空気」のような存在です。主役は紛れもなく娘自身です。娘が自分自身で人生を切り開いていく物語です。ついこの間生まれた娘が、これからの2年間において自分の成績(=現実)と粛々と向き合い・受け止めながら他人のせいにすることもなく目標に向かって毎日何時間も机に向かい続け、何らかしらのゴールにたどり着く。極めて尊敬すべきプロセスです。ここにこそ中学受験の価値があると思っています。私は黒子となってただただ娘の環境を整え続けるのが自分の役割だと思っています。したがって、これから先娘の成績が仮に伸びてきたとしてもそこに私の価値は殆ど無いと思っています。すべて娘が自分自身で切り開いた結果です。
今娘は学習スタイルの過渡期にいます。これまでは「こんなことができるなんてすごいねー!」と褒められて得意になることで学習習慣を身に着けてきました。しかし、これから先は「自分の弱点と真摯に向き合い、克服していく」という大人びた学習スタイルが求められます。私は「自分にとって不都合な現実こそ目を大きく見開いてみつめる」というスタンスは人生において長期的にはポジティブな影響を及ぼすと考えています。もちろん10歳そこらの子供にいきなりこのスタンスを強いるのは酷というものです。ですが、中学受験というイベントを通して少しづつ身に着けてもらいたいと思っています。結末がどうであれ、その後の人生にきっと役立つ可能性が高いからです。
「己の無力さを認識する」という点において、この一年で私自身も親として成長できた気がします。決して何かを諦めているわけではありません。引き続き精力的に娘と二人三脚の日々を過ごしています。「より正確に」自分が与えられた役割を全うできるようになったと思っています。
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